4〕キリスト教1……教父哲学
@ローマとキリスト教
パウロにより世界宗教となったキリスト教は、如何にしてローマ帝国内に広まり、国教にまでなったのだろうか。この点について、ヘレニズム時代の文化的側面からとローマ帝国の政治的側面から見ていきたい。
先に見てきた通り、既にペテロやパウロはネロ皇帝により迫害され殉教していた。何故、東方の様々な宗教*1が広まっていたヘレニズムの風潮の中にあって、キリスト教がそれほどまでに敵視されたのだろうか。
ディアスポラのユダヤ人は、主にパリサイ派*2により、ローマ帝国内でシナゴーク〔教会堂〕を中心に各地で信仰を守り、既に広まっていた。そして民族宗教として、ローマ帝国における合法的宗教であると認められていた。当初、キリスト教もイエスをメシアと考えるユダヤ教の一派として、ユダヤ教の後を追うように広まった。そのため、ローマも問題視していなかった。しかし、民族宗教ではなく、世界宗教として、ローマのユダヤ人に対してではなく、ローマそのものに信仰が広まるようになると、皇帝権力の障害となる。つまり、ローマ人が皇帝の崇拝*3より、キリスト教の主なる神の崇拝を優先するのである。しかも、彼らを迫害すれば、喜んで笑みを浮かべながら死に赴き、皇帝権力に屈することがないのである。こうして、キリスト教はヘレニズムの風潮の中、一民族宗教として黙認されて広まり始めたが、世界宗教としての実態が明らかになると迫害されるようになった。
では、このように敵視されたキリスト教が、如何にしてローマの国教となっていったのだろうか。
当初の迫害は、皇帝の個人的資質に負うところが多かった。即ち、カリギュラ帝*4やネロ帝の場合である。ネロ帝の迫害も、17歳で皇帝となった彼は、初め青年らしい理想を持って、善政を行ったが、皇帝としての精神的ストレスからか、歴史上にも名を残す暴君となる。キリスト教迫害もローマの大火の原因を自らの失政に求められるのを恐れ、キリスト教徒の放火のせいにし、不満を彼らに向けるための迫害であった。これに端を発し、迫害はエスカレートしていった。3世紀末のディオクレティアヌス帝の時には、最早拡大したローマ帝国を一人の皇帝で統治することができなくなり、崩れゆく帝国を先延ばしするため、東西の二つに分け、それぞれを更に正帝と副帝で統治することとし、計4人の統治者をおいた。また、ディオクレティアヌス帝は副帝の献策に従い、組織的・制度的に帝国全域に迫害令*5を初めて発した。こうした彼の政策により、ローマの滅亡は200年延びたと言われる。
その後、コンスタンティヌス帝は、拡大するキリスト教に対する発想を転換し、むしろ帝国統治の理念として利用しようと考えた。つまり、キリスト教徒が増大し続けていることが、ローマ帝国の崩壊の一原因になっているとするなら、自らが対立しているキリスト教徒となり、そのリーダーとして統治すれば、崩壊をくい止められると考えたといえる。それが313年のミラノ勅令による、キリスト教公認である。更に、彼はキリスト教徒の上に立つ皇帝として、325年ニケーアに主だった司教を集め、公会議を開き*6、彼のイニシアティブの下に、イエスを被造物とするアリウス派を異端とし、三位一体説を採るアタナシウス派を正統とした。その後、テオドシウス帝に至って、392年キリスト教は国教とされた。しかし、キリスト教を用いた統治では最早、帝国の崩壊を食い止められない段階にまできており、395年東西ローマに分裂した。
このように見てくるならば、キリスト教がローマに広まったのは、まずは、ヘレニズムの風潮が強かった帝国内に、民族宗教の衣を着たまま入り込み、世界宗教としての本質により、ローマ帝国の民衆の間に広まった。次には、皇帝権力の障碍となることに気付いたローマは迫害を行ったが、その拡大を止められず、むしろ逆に、キリスト教を統治のために利用しようとする政治的意図により、国教にまでなったと考えられる。
*1 当時、東方の宗教として、ペルシアのゾロアスター教や、ローマの軍人の間に広まったミ トラ教や、エジプトの神秘思想であるヘルメス・トリス・メギストスなどがあり、様々な思想 が混淆していた。この諸説が混淆した状況を、シンクレティズムという。
*2 パリサイ派は、エルサレム外でも商業に従事していたため、70年のエルサレム陥落後 は衰退したサドカイ派に代わって、主流派となる。
*3 ローマには不敗の太陽神神話があり、皇帝は太陽の化身であり、戦いに於いて負ける ことはないとされ、皇帝が崇拝された。この太陽神の祭りが、冬至に行われていた。それ がやがて、キリストの聖誕祭に結びつき、クリスマスとなった。
*4 位;37-41年、即位後、精神錯乱を来たし、自らを神と考え、キリスト教徒を迫害した。
*5 その内容は、帝国全土の教会の破壊・聖書の焼却・公職追放・法的保護の停止といっ たものであったが、東西の帝国によって、実施には温度差があり、必ずしも厳密に行わ れたわけではない。
*6 2ヶ月にわたる会議。300人以上の司教が招集され、経費は皇帝持ちであった。皇帝 は会議の時、黄金の椅子に座り決断を下した。一旦は、アタナシウス派が正統とされた が、その後二転三転した。
A異端との戦い
キリスト教が、ローマ帝国の統治理念として利用され、広まっていくことに伴って、キリスト教教義を確立する必要に迫られてきた。というのも、まず第一に、ヘレニズムの風潮の中、キリスト教以外の宗教との関係において、自らの立場を明らかにしなければならなかった。ローマ帝国内には、シリアのミトラ教*1やペルシアのゾロアスター教*2やエジプトのヘルメス文書*3を初めとする東方の神秘思想が、広まっており大きな影響をもっていた。従って、キリスト教もそれらと対峙せざるを得なかったからである。第二には、キリスト教自体が含む不合理な矛盾から、絶えることなく生じてくる異端の問題がある。この2つの要因に留意しつつ、キリスト教の教義がどのようにして確立していき、その根本の思想は何かを明らかにしていきたい。
信仰心のない我々が、旧約聖書と新約聖書を先入観なしに読んだとすると、恐らく旧約の神ヤハウェは信仰や律法を疎かにすると、ノアの洪水やソドムの業火のように、人を裁く恐ろしい神であり、一方、新約のイエスの説く神は、1匹の迷える羊のためにわざわざ探しに来たり、又は1時間しか葡萄園で働かなかった者に1デナリを与えたりする救済の優しい神であると感じるであろう。つまり、信仰心のない我々は、明らかに反対の性質を持つ別々の神が存在すると考える。しかし、キリスト教の大前提は、唯一神信仰にある。とすると、2つの異なる神が存在すると考えることは絶対にできない。この点がキリスト教の持つ根本的に困難な点であり、この一見、不合理に見える矛盾を如何にして乗り越えるかが、キリスト教の奥義である。如何にして乗り越えるかは、後述するとして、この困難の故に、キリスト教は絶えず異端との戦いを続けなければならなかった宗教といえる。
初期キリスト教最大の異端といわれたのが、グノーシス主義である。グノーシスとは、ギリシア語で認識という意味である。この言葉からも想像できる通り、グノーシス主義とは、世界や神を認識しようとすることであり、ギリシア哲学〔特にプラトン哲学〕のソフィア〔知恵〕とユダヤ教の救済者〔キリスト〕とペルシアの二元論的宗教〔善と悪の二神〕などが混淆された思想運動と広く捉えることができる。つまり、グノーシス主義とは、ヘレニズム的影響のもと、様々な思想が混淆した中で、世界の根拠や神を知的に理解しようとしたものであり、また、様々な思想グループを含んでいたといえる。このグノーシス主義のうちで、救済者イエスと結びついて成立したものが、キリスト教的グノーシス主義である。その特徴は、究極的存在から堕落した創造神が世界を生み出しため、世界に悪が存在し、我々も悪にとらわれる【ペルシア的善と悪の二元論の影響】が、我々の中には、究極的存在に連なる善なる本質があり【プラトン的イデア論の影響】、救済者により救われうる【ユダヤ教的メシア観の影響】と大まかに言うことができる。また、善と悪の二元論であるゾロアスター教をベースに、キリスト教を加味し、更には仏教・ギリシア哲学までをも含むマニ教*4も、教祖マニ自らキリスト教徒であるといったとされているように、キリスト教的グノーシス主義として、神と世界の合理的解釈を目指したものとみなすことができる。このように、キリスト教のもつ旧約と新約の神という二元論的傾向と関わるこのような異端は、古代中世を通じ、絶えず正統派と争うこととなる*5。
更には、キリスト教は世界宗教に脱皮したのではあるが、やはり律法を重んじるユダヤ教的傾向に回帰しようするグループも異端として存在した。例えば、エビオン派*6やマルキオン派*7である。
様々な思想が混淆して存在していたヘレニズム期の影響を受け、キリスト教もまだ正統的キリスト教の教義が確立されていない状況であったといえる。こうした中で、正統派を築いていくのが、教父達である。そして、この教会の教義や組織を確立する時代を教父時代という。
当時、キリスト教の中心は、五本山といわれるところに分かれていた。アフリカのアレクサンドリア、イスラエルのエルサレム、トルコのアンティオキア、黒海のコンスタンティノープル、イタリアのローマである。その中でも、信者が最も多く栄えていたのは、アレクサンドリアであった。同じ北アフリカのカルタゴの司教に、テルトゥリアヌスという人物がいた。彼の言葉とされる、「不合理故に我信ず」は、信と知の違いを示すと同時に、信仰の何たるかを語っている。普段、我々は合理的に捉えることのできる対象を分析し、理解すれば、知ることができるとしているが、一方、他人の心の内面やUFOや幽霊などは、合理的には捉えることも、見ることもできない不確実なものと考えている。こうした不確実なものを、表現するとき我々は、心の内面を見せられないので、「私は嘘をついていないから信じてくれ」と言い、捉えることのできないUFOや幽霊を、「私はUFOや幽霊を知っている」とは言わずに、「私はUFOや幽霊を信じている」というのである。合理的なものや知ることのできるものは、信じる必要のないものであり、不合理なものや知ることのできないものこそ、信じるしかないものである。まさに、神の存在もまた、そのような不合理なものである。つまり、イエスが神であり、人間となり、我々の罪を償い、磔(ハリツケ)となり、死んだ後に復活し、今また神の御座にいるとは、合理的にはとても理解できない。だからこそ、「不合理故に信じる」しかないのである。このように考えたテルトゥリアヌスであったからこそ、西欧で初めて、父(旧約の神ヤハウェ)と子(新約の神イエス)と聖霊(神の力の現れ)は一体であるという三位一体説を主張することができ、グノーシス派などの二元論的な神についての思想を異端として否定できたのである。
一方、アレクサンドリア学派は、ユダヤ教の哲学者フィロンの影響の下、プラトンの観念論を用いて、聖書の比喩的解釈を行い、ギリシア的知恵により、ヘブライ的信仰を合理的に理解しようとしていた。従って、この学派において、信仰を前提にした上で、三位一体説を合理的に捉えようとする試みがなされていった。この学派のオリゲネスは最初の組織的神学を作り上げ人物として有名である。また、また先にも述べたニケーアの宗教会議で、この学派のアタナシウスは、キリストを被造物とするアリウス派と対立したが、アタナシウスの三位一体説が正統とされた。こうして、アレクサンドリア学派が、キリスト教の正統派となっていった。古代のキリスト教の教義を、この延長上において、新プラトン主義の影響の下に、確立したのが、アウグスティヌスであった。この経過から分かるように、合理的に神を知ろうとするグノーシス派の二神論的傾向が異端とされ、ヤハウェとイエスが同一であるとする不合理な三位一体説を信じる唯一神信仰が正統とされたのである。従って、まずキリスト教の奥義は、唯一神信仰としての三位一体説にあることになった。また、次にその前提として、知ることより信じることが重要となった。しかし、この後神を信じることと神を知ろうとすることとの間にある溝が、キリスト教の思想を内から展開させていく大きな要因となるのである。
*1 古代ペルシアの宗教、インドのベーダ(ミスラ)と共通する太陽神を信仰する。ゾロアスタ ー教にも連なり、人間は善と悪の神の間に位置するとされる。ローマでは公認宗教となっ ており、ネロ帝も入信しようとした。
*2 ペルシア古来の宗教をゾロアスターが改革したと考えられる。聖典は『アベスター』。世 界は善神アフラマヅダと悪神アーリマン(アングロマイニュ)の戦いの場である。人間の義 務は善神アフラマヅダを信じ、火を拝むことにある。やがて善神が勝利し、最後の審判が 下るとされる。拝火教ともいわれ、ササン朝ペルシアでは国教となる。る。
*3 エジプトのトート神信仰やギリシアのヘルメス神信仰の融合した神秘的グノーシス文書 のこと。
*4 バビロニアに生まれ、グノーシス的風潮の中で育つ。12歳で神の啓示を受ける。インド まで行き、仏教の影響も受けている。ゾロアスター教をベースにグノーシス的解釈を加味し、 キリスト教の一派を名乗る。ササン朝に広まるが、ゾロアスター教徒に惨殺される。
*5 キリスト教は絶えずマニ教的異端に悩まされる。マニ教を初め、他のグノーシス主義、 ボゴミール派、カタリ派(アルビジョワ派)など、古代から中世にわたって、絶えず二元論的 が出現した。
*6 B原始キリスト教〔原始キリスト教の思想〕の*1参照。キリストの神聖を否定するユダ ヤ人のキリスト教の一派。5C.頃まで存続。
*7 反ユダヤ的グノーシスの一派。異端とされた後自分の教団を形成。2C.頃。
Bアウグスティヌスの思想……古代カトリック教義の確立
〔アウグスティヌスの生涯(354-430)〕
アウグスティヌスは、ローマの属州であったヌミディア(現在のチュニジア)のタガステという町に生まれた。父は異教徒で、母はキリスト教徒であった。17歳で当時アフリカ最大の商業都市であったカルタゴに出て学んだ。しかし、都会に出た一青年にありがちな放蕩に陥り、身分の異なる女性と同棲をし、一子をもうけることになった。絶えず罪の意識に悩まされた彼は、キケロの『ホルテンシウス』を読み、ストア派の禁欲的真理追究に、つまり、愛知(フィロソフィア)に目覚めた。しかし、自らの物質的欲望を抑えることはできず、救いを宗教に求めることとなる。但し、母の信じるキリスト教は荒唐無稽な作り話のように感じ、納得がいかなかった。そこで彼は、善と悪の二元論で世界を説明し、ギリシア哲学を用いて世界の創造を合理的に説明していると思われた、マニ教に入信する。しかし、彼はマニ教にも(特に悪の問題や天文学に対し)疑問を持ち、有名な司教ファウストゥスに疑問をぶつけてみた。彼は、謙虚に知らないと答えた。彼の中で疑問はふくらんでいった。
この後、彼はローマに職を求め、マニ教の友人達の尽力により、海を渡ることとなった。この頃の彼は、真理に対し懐疑的となり、真理の存在を疑うアカデメイア派の考えに接近していた。ローマからミラノへ、修辞学の教授の職を得た彼は、そこでアンブロシウスと出会うこととなる。彼は、新プラトン主義の立場から、聖書を比喩的に解釈しようとするキリスト教徒であり、西方キリスト教会において指導的立場にある人物であった。
この出会いは、彼にとって一大転機となった。悪の問題に悩む彼にとって、新プラトン主義的解釈は、善と悪の二元論を超えるものであったからである。もし世界に善と悪が実体として、二元的に存在するなら、自分自身が悪を行い続け、悪から抜け出ることができないのであるから、自分自身が実体としての悪から成り立っていることとなる。このことは、いわば自分が悪魔であることを認めることに等しい。この問題に対し、新プラトン主義は、世界は善なる一者(ト・ヘン)から流出することによって成立しているとして、全ては悪でなく善に起源をもつと考える。つまり、善そのものである一者から、徐々に善としての完全さが低下してくるにともなって、理性・精神・魂と階層的に変化するとされる。ここまでがプラトンのイデア界に相当し、英知界と呼ばれる。また、それ以下は物質と関わり、同様に善としての完全の低下にともない、人間から動物・植物・物質へと存在の階層が下がるとされる。こちらがプラトンの現象界に相当し、感性界と呼ばれる。*1この一者からの流出という考えを例えれば、完全な善である一者が善なるH2Oであるとすると、そのH2Oが水蒸気として流出し、冷えて液体としての水になり、更に冷えて固体としての氷に変化するようなものとイメージできるであろう。この考えに従うと、世界の全ては善なる一者から成り立ち、悪から成り立っていないことになる。では、悪とは何なのか。それは、一者から離れ、善の欠如した状態のことであり、悪そのものが実体として存在するのではないことになる。言い換えれば、100%の善である神に対し、70%の善に過ぎない我々は、30%足りないが故に、不完全であり、その欠けて無い部分が悪であるかのように見せかけるのである。つまり、悪は実体としては存在しないのである。こうして彼は、善と悪の二元論を、マニ教を克服することができると考えたのである。
また、アンブロシウスによるプラトンの観念論的解釈を、聖書にも用いることにより、稚拙に感じられた聖書の物語の奥に、深い真理を見出すことができるとも感じたのであった。こうして、彼の思想遍歴は、後一歩でキリスト教に改宗するところまで来ていた。
しかし、実際の彼は、後からイタリアに来た母の薦めに従い、15年間同棲していた女性と別れ、そして12歳に満たない少女と出世のために婚約した。しかも、その彼女が結婚できる年齢になるまで待つことができず、浮気をしてしまう。まさに、肉の欲にとらわれ、原罪の真っ直中にいたといえる。この悩みと格闘しているときに、とうとう彼に回心の時が訪れた。ミラノの庭にいるとき、子供の声が「取って読め、取って読め」と聞こえ、彼が聖書を取って開いたところを読むと、「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと妬みを捨てて、昼間歩くように、慎ましく歩こうではないか。あなたがたは主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」*2と書かれてあった。この時、彼は心の闇が消えるのを感じ、肉欲を捨てることができたのであった。この後、彼は洗礼を受け、教授の職も結婚も財産も全てを投げ出し、修道院のような共同生活を始め、信仰に生きることとなるのである。
この回心の意味を、信仰心のない我々は、どのように解釈したらよいのであろうか。恐らく、アウグスティヌスと同じことが我々に起こったとしても、単なる偶然と考え、その後も依然と変わらず、惰眠を貪り、肉欲にとらわれた生活を続けるに違いない。彼が肉欲をこのとき捨てることができたのは、自分の努力ではなく、神からの救いによると考えるべきであろう。つまり、神の側から彼の所に訪れ、神が肉欲を取り除いてくれたと感じることができたからこそ、神の存在を信じられたのであろう。我々の場合は、神の側から救済してくれたと感じられないがために、信じることができないのであろう。
彼は、この神からの救い、無償の恵みを恩寵と考えた。この恩寵は、彼の32年に及ぶ知的探求の果てに、自らの力によるのではなく、神の側からの恵みとして、一方的に神が定めた時におとずれたものと考えた。即ち、恩寵予定説の考え方である。彼の人生を顧みるときに、神により無から創造され無に帰すべき人間という、不完全な自らの存在にとらわれ、自らに与えられた自由意志を絶えず自らの存在に向けていた。つまり、肉欲にとらわれていたのである。そのことこそが、彼は原罪であると気付いたのである。しかし、常に原罪へと向かってしまう人間の自由意志を神へと向けるのは、自らの力ではなく、神の恩寵によるしかないのである。
彼は、その後ミラノからローマへと修道士のような生活を続けた後、故郷のアフリカへ帰ることとした。彼はアフリカのヒッポで、教会の中に修道院を開き、司祭として共同生活をしていた。やがて司教となり、ドナトゥス派*3などの異端との論争に明け暮れしながら、教会の教義の確立に貢献した。
一方、ローマではゲルマン民族の侵入が繰り返され、410年には永遠の都ローマが、アラリックの率いる西ゴート族により、略奪された。この略奪はローマがキリスト教を信じたことによって引き起こされたものだという批判をきっかけに、神に背く自分への愛(エゴイズム)に満ちた地上の国と神に従う神への愛に満ちた神の国との対立というキリスト教的歴史観に基づき、『神の国』を彼は執筆した。そして430年に、前年より海を渡って侵入してきたゲルマン民族の一派ヴァンダル族に囲まれたヒッポの町で、彼は76歳の生涯を閉じた。
*1 p22 5〕Aヘレニズム思想の特徴の項参照
*2 ローマ人への手紙13章、13・14
*3 北アフリカの異端。棄教した司教のサクラメント(聖典礼、洗礼・聖餐)を認めない厳格派 のこと。反ローマ民族運動と結びつき、広まった。アウグスティヌスの教義はこの派との論争 により確立した。
〔アウグスティヌスの思想〕
前述したようなアウグスティヌスの生涯から、彼の思想の骨格が見えてくる。一番目の思想的特徴は、彼が肉欲にとらわれ、自らが悪そのものではないかと悩み、その解決を求め続けた思想遍歴から分かるように、悪の起源について、新プラトン主義的に考えた点である。そして、二番目の特徴は、肉欲という原罪を乗り越えようとして、信と知の問題を明らかにしたことにあるといえる。また、三番目の特徴として、そこから最終的に訪れた恩寵の思想を挙げることができる。回心した後、彼は後半生を異端との論争に明け暮れすることとなった。この論争の中で、彼は彼の思想を体系的にまとめ上げていった。そして、最後の特徴として挙げたいのが、彼の体系の根幹に据えられた三位一体説である。この三位一体説を中心に、キリスト教の教義が確立したのである。
まず一番目の悪の問題について、彼はストア派からマニ教、アカデメイア派を経て、新プラトン主義に辿り着いた。彼は前にも述べた通り、この新プラトン主義の一者からの流出という一元論的立場から、マニ教的な善と悪の二元論を否定した。全ては善なる神に起源をもち、悪としての実体をもたず、神から遠ざかり善が欠如した状態が悪という現象として現れているにすぎないのである。神とは異なる不完全な人間は、絶えず滅びに向かい、無に回帰していくにもかかわらず、神のように完全で永遠でありたいと、自己の生〔という現象〕に執着し、自我〔という虚像〕に固執する。この実体のない自我に執着するというエゴイズムに、神から遠ざかる人間の傾向を見出し、そこに常に原罪に陥る人間を見た。つまり、実体のない虚像〔虚無〕に執着するエゴイズムが、悪と見えているのである。
次に二番目の信と知の問題について、肉欲の罪から逃れようとした彼の取り組みから考えてみよう。彼は自己の罪を乗り越えようと、新プラトン主義に基づき「心を通って神へ」、流出した存在の階層を遡ることを考えた。この段階では、彼はギリシア的愛知の精神で、真の知恵による善の把握を求めており、善なる神を理性でもって知ろうと考え、神を捉えることができずにいたといえる。その彼に、ミラノの庭で「取って読め」の言葉とともに回心の経験が訪れたのは、32歳のときであった。神の側から、彼に救いの手が差し伸べられ、「キリストを着ろ」と述べ伝えられ、肉欲を捨てさせてくれたのであった。この神の側から自ら姿を現してくれるという啓示の経験により彼は、神を信じることができたのである。まさに、テルトゥリアヌスのいう「不合理故に我信ず」といってよいであろう。神は合理性を超えているのである。
ところが、信仰の世界に入ってみると、彼の優れた理性でもって、彼は神を直接認識することができたのである。このことは、いわば1階のコンクリートに囲まれた部屋〔世界〕で神を探し求め、知ろうとしたが知ることができずにいた時に、天井から光が差し込んできて、2階の部屋に入ることができたようなものである。その2階の部屋は信仰の部屋〔世界〕で、そこでは理性でもって、神を見ることができるというのである。つまり、彼は「不合理故に信ず」から、「信じれば知れる」〔信じるならば、神を知ることができる〕という段階に入ったのである。
但し、2階に行くことができるのは、彼自身の力でなく、あくまで神の救いによるのである。無力な人間が、自らの力でもって神に至ろうとしても、律法に頼るのと同様に、決して届くことはない。つまり、救いはあくまで神の側にあるのであり、神によって、それがいつ訪れるかも含めて、全て決められているのである。この考えが、三番目の特徴として挙げられる、恩寵予定説である。
では、かつて確実な真理や知識など何もないというアカデメイア派に近い思想をもっていた彼は、この懐疑的な立場をどのようにして乗り越えたのであろうか。彼は、「私は考える。それ故に私はある。例え、私が間違っていたとしても、それでも私はある。」*1といい、考える自分が存在することの確実さを示そうとしている。つまり、夢を見ていて全てが幻だとしても、幻の中で考えている自分は確かにあると考えるのである。この思考することの確実さに基づいて、彼は神を知り、古代キリスト教の教義を確立していこうとするのである。
キリスト教の教義の根幹は、三位一体説である。今まで何度も見てきた通り、キリスト教は唯一神信仰を旨とする宗教である。ところが、旧約の神と新約の神は、明らかに異なる神に見えるのであった。ここに、キリスト教において、絶えず異端が現れ続ける理由があった。この矛盾を乗り越えるための思想が、特徴の最後に挙げた三位一体説である。三位一体説とは父なる神と子なる神と聖霊とが、三つの格位(側面、ペルソナ)をもって現れるが、実体(本質、ウーシア)は一つであるとするものである。父とは、在って在り続ける時間を超越した〔生まれざる〕創造神、旧約の神ヤハウェ、全ての原因である。子とは、歴史の中に〔生まれたもの〕、神自らが受肉し現れたイエスである。聖霊とは、神の意志あるいは力が、(子を通して)間接的に現れたものである。例えば、神の声・光、奇蹟・救い、御使いなどが、それである。
この三位一体説を西方で初めて主張したのが、先に述べたテルトゥリアヌスである。3=1が成り立つことを主張することができたのは、彼が信仰を「不合理故に信ず」と捉えていたからに他ならない。一方、アウグスティヌスは、「信じなければ知ることはないであろう」といい、先に見た知の確実さに基づき、信じれば知ることができると考えていた。そのため、三位一体説は人智を越えたものとしながらも、その合理的な説明を企ていた。例えば、仮に我々が2次元にいるとすると、正四面体を見たとき、我々はそれぞれの面の独立した4つの正三角形と見ることしかできない。ところが、2次元を越えて、3次元から見れば、実はそれらは4つの側面から成り立つ、正四面体という1個の立体である。三位一体をこのようにみなして、2次元の知の世界から、3次元の信仰の世界に入れば、合理的に理解することができると考えていたといる。但し、信仰のない我々は、2次元にとどまっていて、神を知ることはないのである。
アウグスティヌスが、キリスト教最大の教父といわれるのは、異端論争における活躍もさることながら、この三位一体説をキリスト教の根幹に据え、教義の体系化を確立したからといえる。まさに、三位一体説を中心に、罪の問題を新プラトン主義的に捉え、グノーシス的二元論を乗り越え、信仰に基づく知の可能性を示し、『神の国』においてキリスト教の歴史的理解を示したことから、彼は十分にそう呼ばれるに値すると思う。従って、繰り返すが、アウグスティヌスにより、プラトンの思想(あるいは新プラトン主義)をベースに、キリスト教の教義が確立したといえる。
*1 近代哲学の父といわれるデカルトの「cogito ergo sum」との類似性を指摘しておきたい。 また、確実な根拠を自己に求めたデカルトに対し、アウグスティヌスは神に、信仰に求めて いる点に相違を見出しうる。